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次女の結婚式

昨日(5月11日)は次女の結婚式、式は明治神宮で、披露宴は明治記念館でした。

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長女の時も明治神宮で挙式をしたのですが、玉砂利を踏みながら神殿まで行列をしている時に、見ず知らずの観光客から「おめでとう」「幸せになってね」といった声が掛かったり、外人さんが写真を撮ったりするので、ちょっと感激しました。今回もそれを期待していたのですが、昨日はあいにく朝からの雨、雨の時は回廊を通るので行列に支障はなかったのですが、ちょっと残念でした。

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花嫁の父だから泣いたのでしょう、って後で知人に聞かれましたが、残念ながら涙はなし、というのも娘が嫁に行ったわけではなく、婿養子を迎える結婚式だったからです。むしろ、先方のご両親の方が、手塩にかけた息子を手放したのですから、寂しかっただろうと思います。

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我が家は、私たちから4代前の為吉じいさん(為吉蔵の)が分家して興したのですが、どういうわけかその代から男の子に恵まれずずっと婿養子、そして私が3代目の婿養子なのです。しかも私たちには娘が2人、長女は数年前に嫁に行ってしまったので、次の代がどうなるか3代目の私としてはずっと気になっていましたが、これで少しホットしました。

昔から「小糠3合あれば婿に行くな」という諺がありますが、私自身は婿養子になることや姓が変わることに全く抵抗はありませんでした。「自分は自分」という自負みたいなものがあった精もあるのですが、家という概念もすでに昔とはずいぶん違っていましたから。
ましてや今は、どちらの姓を名乗るかをくじ引きで決めたり、夫婦別姓が取り沙汰される時代ですから、あまり気にすることではないように思えます。ですから、若い2人には、思い切って自分たちの道を切り拓いて欲しいと思っています。

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余談ですが、私は今回、和服で式に臨みました。特に理由があったわけではなく、花嫁・花婿が和服、妻も和服、ならば私も・・・といった軽い気持からです。
着付けをしてくれた方は、私と同年輩と思われる女性でした。黙って着せてもらうのも無粋だと思い、ついこの間テレビで見た「銀座で着物」に話題を振ると、そこはさすがプロ、いろいろと着物について教えてくれました。そのうち話題は歌舞伎になり、着付けの間中、歌舞伎の話で大盛り上がり、「とても楽しく着付けをさせていただきました」って、逆にお礼を言われちゃいました。
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「篠田桃紅墨象 百の記念展」を観てきました。

5月4日に菊池寛実記念 智美術館で行われている「篠田桃紅墨象 百の記念展」を観てきました。

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コレクティブハウス聖蹟を設計した篠田弘子さんから、案内のメールをいただいたのです。というのも、桃紅さんと弘子さんは従姉妹同士です。年の差はかなりありますが・・・。

桃紅さんの作品を観るのは今回が初めてではなく、もう10年ぐらい前になるでしょうか、飛騨高山に旅した時に、吉島邸(古民家)で観たことがあります。小さな作品数点が壁に飾ってあありました。それ以来のファンで、展覧会があったら絶対に観に行きたいと思っていました。でも、かなりの高齢だし、もう無いのかなと思っていたのですが、今回の100歳を記念しての展覧会に行けたのはラッキーでした。

書画23点とリトグラフ8点が展示されていました。その大部分は桃紅さんのディーラーとして、長年、国内外に作品を紹介してきたノーマン・トルーマンさん所蔵の作品だそうです。ですから、この機会を逃したらそれらには2度とお目にかかれないかも知れません。

桃紅さんは、書家として活動を始めるのですが、既存の筆法や書風を超えて文字を追求するうちにこのような抽象のかたちに行きついたということです。和紙または和紙の上に金箔や銀箔が貼られ、そこに墨や胡粉で、書のように勢いよく、一気に形(線)が描き込まれているのですが、その形(線)の鋭さと、残された空間の美しさにはハッとさせられます。

カタログを購入してきましたが、そこに桃紅さんはこんな文章を書いています。
【朱】
洛陽の赤も、花花の紅も、「墨」は表現し得る、と今も信じています。
しかし、その方法は深遠で、私などの一生では到り得ないもの、ということが、老いて少しわかりかけてきました。
そのことを、私はいま、「朱」に語りかけています。
「朱」は永いとしつき、「墨」に寄り添うかたちで来ましたから、そのことをよく知っています。
だから、咲く花、燃える火、のような、目に見得るものより、心の焦れ、思いの灯、という不可視なものを、かたちにしたいという私の叶えがたい願いも、心得ていてくれます。
「墨」も「朱」も、写実で表現し得ないものの表現を願って、私がえらんだてだてです。

抽象とか前衛表現の神髄を言い当てている文章です。

この美術館は初めてですが、とても素敵な美術館でした。現代陶芸のコレクターである菊池智さんのコレクションを母体に、現代陶芸を紹介するために10年前に開館したのだそうで、場所はホテルオークラの真向かいです。

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美術館は地下にあるのですが、1階には「ヴィワ・ラクテ」(フランス語で天の川)というフレンチ・レストランが併設されていて、観終わってからここでランチをして帰ってきました。

大型連休にもかかわらず、出かけたのはこの日だけ、でも何だかとても贅沢で濃い1日でした。
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「コレクティブハウス聖蹟」の関戸まち歩き

4月27日はコレクティブハウス聖蹟(CH)居住者による関戸のまち歩きでした。
「せっかく関戸に住んでるんだから、一度まちを歩いてみようヨ!」って提案したら、みんな大乗り気、連休初日に実現したというわけです。

CHを午後2時に出発し、最後は関戸の原風景が残る「オオカミ谷戸」まで約1時間半、そこに関戸の長老であり、文化人でもある井上正吉さんがお住まいなので、事前に連絡をしておいて、約1時間、昔の関戸の暮らしについて話をしていただきました。

実はこのコース、昨年11月にも「まち育てネットワーク関戸」が主催して、まち歩きを行ったところです。
ここは鎌倉時代の建暦3年(1213年)に霞ノ関という関所が設けられたほどの交通の要所で、小田原北条時代の宿場町として賑わった場所です。また、元弘3年(1333年)には、鎌倉幕府軍と新田義貞率いる反幕府軍が激しい戦いを繰り広げた場所で、その時の遺構も残っています。そんなふうに、なかなか興味ある場所なのです。

この日は、終了後に我が家の蔵で「ポットラックパーティ」を行いました。昼間は都合が悪くまち歩きには参加できなかった方も、そこから参加してくれて、蔵パーティは大変な盛り上がりでした。

感心したのは、終わってからの後片付けの要領の良さ、ふだんCHの暮らしで鍛えているだけのことはありますね。見事!

延命寺、本寺は箱根駅伝で有名な鶴見の遊行寺

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以下、井上邸で

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2人の年齢差は92歳・・・

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元気をもらった、カコミ記事「まひの症床 涙のサイン」

今日机の上を整理していたら新聞の切り抜きが出てきました。すっかり忘れていたのですが、とてもいい話だなぁ〜と思って切り抜いておいたのです。「まひの症床 涙のサイン」というカコミ記事(3月17日の朝日新聞)です。

武蔵野市に住む天畠大輔さん(31)は、立命館大学大学院先端総合学術研究科に在籍し、博士論文の完成を目指しているのですが、実は大輔さん、14歳の時に急性糖尿症で心肺停止になり、それが原因で聴覚はあるが、四肢がまひ、言葉を発することができない。視覚は色や立体をある程度認識できるものの文字は読めない。時々あごがはずれ、放っておくと息ができなくなる。そんな重度の障害者なのです。

ところが母親が編み出した「あ・か・さ・た・な話法」というコミュニュケーションの方法で、164ページ、16万語に及ぶ博士予備論文を書き上げたというから凄いです。

もっと感動したのは、そんな大輔さんが母親に自分の意思を初めて伝えた時のエピソードです。それがきっかけで、「あ・か・さ・た・な話法」が編み出されます。

ほぼ植物状態になって半年後、母親はベッドに横たわる大輔さんの目から涙がこぼれているのに気付きます。「なにか伝えようとしている」と感じ、「五十音を言うからサインして」と伝え、「あ・か・さ・た・な・・・」と語りかけました。
そうやって1時間かけて紡ぎ出した言葉は「へ・つ・た」でした。それで初めてベッド脇の経管栄養の袋が空になっていることに気づいたというのです。「おなかが減った」と伝えたのです。

最近は新聞を読んでもテレビを見ても良いニュースがなくて、「人間って、所詮ダメな生き物なのかなぁ〜」などど、暗くなったりします。
でも、少しの可能性も見逃さなかった母親の愛情と、その愛情や期待に応え必死に生きようとする大輔さんの話にはとても勇気づけられました。そして、そんな大輔さんを大勢の仲間やボランティアイが支えていることを知って、「人間って、捨てたもんじゃないよな」と希望も湧いてきました。


PS) ここからは余談ですが、3歳になったばかりの孫は、未だに満足にしゃべれません。「あ・あ〜あッ」とか「い〜ッ、あ・あ・あ」といった感じで、まるで“おさるのジョージ”です。でも姉(年長)や母親には何を言っているか分かるらしいのです。ですから、家に遊びに来たときにはいつも姉に通訳を頼んでいます。
「あ・あ〜あッ」でも通じてしまうから、たぶんそれ以上の努力をしないのだろう・・・というのが私たちの結論です。4月から幼稚園に通いだしたので、一気にしゃべるようになるのだろうと思います。

おしゃべりの姉の時には全く気付かなかったのですが、話し言葉を獲得するって、けっこう難しいことなのですね。
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姜尚中がゆく 韓国ルート1の旅

nhkBSスペシャル「姜尚中がゆく 韓国ルート1の旅」、ビデオに撮っておいて、最近見ました。
南の木琱(もっぽ)からソウルまで、韓国の中心部を貫く国道1号線、その旅を通じて、いまの韓国が直面する様々な現実と課題、そして社会の軋みを浮き彫りにした番組でした。

木琱の内田千鶴子さんが作った共生園に始まり、地域住民が立ち入り検査をしている原子力発電所、村おこしで注目されているクイアンドク村、兵役で入隊した若者たちを訓練する軍事施設、輸出の拠点として栄えるピョンテク港、鉄塔の上でストライキを続ける労働者、FTAの影響で離農する牧畜農家、受験戦争に翻弄されるソウルの子どもたち、コミュニティを復活させたソンミ山マウル(村)、そして最後は板門店でした。

グローバル化が拡大する中で必死に成長戦略をとる韓国、FTAもその一つです。その結果、格差社会が進み、大人だけでなく子どもたちまでもが過度な競争に巻き込まれ、農家は廃業に追い込まれています。特にソウルでは、道路に何台もバスが停車していて、夜の10時になると塾から続々と出てきた子どもたちがそれに乗って帰ります。そこまでやるかとショックでした。

そうした社会の軋みを解消するために頑張っている人たちもいます。
その一つは、クイアンドク村が進める村おこしです。
開発から取り残されたクイアンドク村の人たちは、自分たちの力で活力を取りもどそうと、伝統的な住宅の宿泊施設を作ります。建設資金は、1万〜30万円の範囲で村人70人が出資します。運営にもそれぞれの特技を生かしながら村人みんなで関わります。もちろん食材は地元産。それが評判になり、宿泊客は確実に増えているということでした。
最後に語った村長の言葉が印象的でした。「私たちは商売としてではなく、自分たちに残された自然や伝統を大切にして、村に誇りを取りもどそうとしているのです」
姜さんも、この村にはすべての大切なものが実験的に現れていると語っていましたが、グローバル化の中にあって大切なのは、こうしたローカリズム(地域主義)の取り組みではないでしょうか。

もう一つは、コミュニティを復活させたソンミ山マウル(村)の取り組みでした。
2001年に、市がソンミ山を開発するという計画を発表した時、共同保育から生まれたソンミ山保育園の関係者が反対します。そして、粘り強く運動を展開した結果、2年後にこの計画は白紙撤回取になります。

それだけで終わらせなかったところが、この運動に関わっていた人たちのすばらしいところです。
この運動をきっかけにコミュニティカフェなどの店舗や様々な施設をつくり、生協を立ち上げ、そしてとうとうフリースクールのソンミ山小学校まで作ってしまったのです。
今では、5,000人からなるソンミ山マウル(村)というコミュニティができあがっています。

ここでは家に垣根がなく、子どもたちは勝手に他人の家に入り込んで遊んだりします。親たちは親で時々持ち寄りパーティーを開いたりして楽しんでいます。
ある父親に「休みの日によその子が遊びに来て疲れませんか?」と尋ねると「疲れるけど、楽しいです」と答えていました。

ある母親は、有名大学を卒業して一流企業に就職、海外勤務を目指してバリバリ仕事をやっていた時に身体を壊してしまいます。それから考え方が変わったといいます。「この国には競争社会のロードマップがある。そのレールから外れまいとみんな必死。でも病気になってからは、レールから外れても、家族みんなで幸せに暮らす生活があるはずだと思うようになった」と語っていました。

いろいろ考えさせられた番組でした。
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「心を、開き合う」仕事の流儀

最近はfacebookで近況を発信することが多いですが、それは携帯で写真を撮り、簡単なコメントを付けて、その場でアップできてしまうという手軽さのためです。ところが夕べはブログの様な長い文章をアップしちゃいました。携帯で見る人が多いですから、こういう長い文章は、facebookには似合わないんでしょうね。
以下こんな感じの文章です。

夕べは久しぶりに妻と2人で外食。帰ってから何気なくテレビをつけたら、この4月から再開された「プロフェッショナル 仕事の流儀」が始まるところでした。今回は昨年11月に、メートル・ドテル(給仕長)サービス部門の世界コンクールで優勝した宮崎辰さんの仕事の流儀が紹介されました。

つい先日はソムリエの世界大会がお台場で開かれていましたが、こんな大会もあったんですね。でも、美食の国・フランスでは、メートル・ドテルはシェフ(料理長)と並ぶぐらい重要な職業なんだそうです。

料理人を目指しフランスで研鑽を積んだ宮崎さんは、帰国後、地元のレストランに就職、でもキッチンに空きがなくサービスを担当、そこで当時日本一のサービスマンと出会い、この道に入ったそうです。
やがて三ツ星レストランのメートル・ドテルに抜擢、しかしそれまでとはスタッフの質が違って圧倒され、コンクールが近いこともあって精神的に追い込まれ、安定剤を服用するようになります。
でも、お客さんの前に立つときは体調のことを忘れる、「客が、自分を生かしてくれる」と気付いてからは安定剤を飲むこともなくなり、それ以来、仕事のモットーは「心を、開き合う」だそうです。

それにしても、一度でいいからそんなサービスを受けてみたい。そう思ってネットで調べてみたました。そしたら、宮崎さんが務める恵比寿の「シャトーレストラン ジョエル・ロブション」のディナーは何と24,640円から、ちょっと!ちょっと!NHKさん・・・この値段じゃあ行けないよ!

とまあこんな文章をfacebookに書いたわけですが、サービスのモットーは「心を、開き合う」というコトバにはとても共感しました。
最近はサービスの時代、どこの店にもマニアルがあって、表面上は一応マニアル通りなのですが、どうも心が伝わってこない。形やコトバ使いはどうでもいいから、もっと心のこもった対応をして欲しい。

私自身約30年間公務員の仕事をしましたが、その時に心がけたことは、お客さんである市民と「本音で話をする」ことでした。特にそれをモットーとして意識していたわけではないのですが・・・

きちんと市民と向き合って話を聞き、話をし、できないことはなぜできないかを丁寧に説明する。その場だけを繕うための曖昧な返事はしない。でも、それがいい意見であれば、「今は予算もないし、制度上も難しいが、できるように頑張ります」と伝え、実際に予算化する努力もする・・・そんな感じでしたね。

それでも一公務員ですから、制度上の壁がいろいろあって、悔しい思いもしました。でも、市民からはかなり信用されていたように思えます。仕事を辞めてもう10年以上経ちますが、いまだに稲城を卒業させてくれないのは、市民とそういった「心を、開き合う」関係が出来ていたからのような気がします。

でも、飽きられないうちにそろそろ卒業しないと・・・。
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2冊の寄贈本

またまた本の話題です。
先週私のところに2冊の本が送られてきました。
1冊は、女性建築家4人(本には「つなが〜るズ著」とあります。なるほどね、繋がるとガールズか・・・)が書いた「くさる家に住む。」(六耀社)、もう1冊は、延藤安弘さんが書いた「まち再生の術語集」(岩波新書)。

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どちらの本でも「コレクティブハウス聖蹟」のことが取り上げられており、そんな関係で私のところにも送られてきたのです。

「くさる家に住む。」は「人と人、人と自然が共生する 10の暮らし方」を本にしたもので、その一つが「住む人一人ひとりがつくる『小さな社会』コレクティブハウス聖蹟」という章になっています。

それにしても「くさる家に住む。」って、おかしなタイトル!何でって思ってプロローグの文章を読むと・・・

「くさる」は熟成。手をかけて暮らすことで味わいが深まる家。
「くさる」は朽ちる。土と水と空気を汚さず建てられて、最後はひっそり土に還る家。
「くさる」は鏈(くさ)る。人と人が鎖のようにつながって、人が人らしく生きられる家。
人が人らしく生きる、身の丈にあった「暮らし」こそが、今の時代の豊かさであるに違いありません。

とありました。なるほど納得!

「まち再生の術語集」の方は、私のブログにも登場したことのある延藤先生の著作。これまで先生は何冊も本を書いていますが、そのエッセンスが詰まった本のようです。
最近コミュニティデザインという言葉が注目されています。これは元々アメリカ発の言葉だそうですが、その定義を延藤流に分かり易く解説すると「かかわる人々が『いま、このときゆえの出会い』に触発されて、ヒト・コト・モノの関わりに参加し、自ら物語りの中に生きることで、人間の環境が相互に育み合い、エンドレスにそのストーリーが持続・発展していくこと」ということになるそうです。

アレ・・・あまり分かり易くない・・・
ではこれはどうですか。
この本は次の4つの章からなっています。
Ⅰ 歓喜咲遊(よろこびわらいあそぶ、楽しさと遊び)
Ⅱ 私発協働(自らが主となりまわりとつながる、つぶやきをかたちに)
Ⅲ 対話共有(話し合い、知恵を育み合う)
Ⅳ 軋変可笑(軋みを可笑しみに変える、トラブルをドラマに)

この4つの章に基づいて、コミュニティデザインの様々なキーワードが星座のようにちりばめられているのがこの本です。ですから、本を読んだ後に、さっきの延藤流コミュニティデザインの定義をもう一度読み直してみたら、ストンと腑に落ちるのではないでしょうか。

私もまだ自分が関係しているところしか目を通していませんので、読むのがとても楽しみです。
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「abさんご」を読みました

芥川賞や直木賞を受賞した作品を、受賞作だからといってわざわざ読むということは殆どありません。なのに、黒田夏子さんの「abさんご」は読んでみようと思いました。史上最年長の芥川作家と騒がれているからではありません。
ひらがなを多用し、横書きで、句読点はピリオドとコンマ、カタカナは一切出てこず、さらに固有名詞も出てこないという、その文体に興味をもったからです。

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つい先日、NHKのゆうどきネットに黒田さんが出演していました。山本アナが「史上最年長の75歳で芥川賞を受賞したとマスコミで騒がれていますが・・・」と直球の質問をぶつけたところ、「騒がれることは有り難いことですが、私とは無関係です」と言い切っていました。そのケレン見のない受け答えに、とても共感しました。

しかし読んでみるととても大変、なかなか読み進むことができません。どなたかが「ひらがなの多用、主語の省略、こうした主格の表現、と並べてみて想起されるのは、日本語の文語体である」と書いていますが、まさにそのとおり、まるで「枕草子」でも読んでいるような気分になりました。

内容は、幼い時に母親に死なれた子ども(作者)と父親、そして「家事がかり」(家政婦)との感情的なかかわり合いが15の短篇として綴られています。ストーリーがあるわけではなく、登場人物もその3人だけ、ですから普通に考えればさほど難しい内容ではないのです。なのに、読み解くのが大変。
その理由の一つは、固有名詞が出てこないことにあります。固有名詞の代わりに、次のように「者」で個人を特定し、表現しています。

「またねむってはなんどかあく目を,受けとめてはえがおでうなづく者は,じぶんが死神をやっているという気がした.」

これは死を迎えようとしている父の枕元にいる子の心の描写です。
この文章からも分かるように、ここでの「者」は、明らかに作者自身のことなのですが、それを「私」とか「夏子」とは書かない、おまけに「者」は必ずしも時系列的に登場してくるわけではないので、「者」が出てくる度に、この「者」は誰を指すんだろうとしばし考えてしまいます。

なぜ固有名詞を使わないのでしょうか。
例えば「私」と表現したのでは、それはトータルとしての「私」であって、時間軸で刻々と変化する「私」が厳密に投影されないから・・・ということなのでしょうか。それとも、固有名詞に象徴される特定の「私」ではなく、もっと普遍的に、誰にでも共通する「私」を表現したいためなのでしょうか。

漢字を多用しないことについて黒田さんはこう述べています。
「漢字というのは拾い読みが可能なほど視覚的なぶん、意味や使い勝手が限定されてしまう。そうした縛りを離れ、むしろ言葉の語源や元々の働きに戻ろう戻ろうとする、願いみたいなものがあるんですね」

この文章を読むと、固有名詞を使わない理由も、できるだけ視覚的に捉えられたくないという思いがあるのかも知れません。いずれにしても「abさんご」は、何度も反芻し、その本当の意味を確認しながら、慎重に読み進む必要のある文体であることだけは確かです。
また黒田さんは、読者と安易にコミュニケーションを図ろうとする以前に、そのことを断ち切ってでも、ひたすら自分の気持ちを表出することだけに専念したいと思っているようにも見えます。もしそうだとすれば、最近のSNSブームなどとは真っ向から対立する姿勢です。

そんな文章を読み進む中で、私の中にストンと落ちたか所がありました。ちょっと長いですが引用してみます。

「二十年の子のくらしの実態を親は知らない.きこうとしたこともなく,住みかわった八か所ものどこも見たことがない.どれほどみじめであろうと,なんとかじんじょうであろうと,だからどうするということのできないものならいっそまったく知らないことがえらばれた.これも八しゅるいほど変わった食べるためのしごと,ずっと変わらないほんらいのしごと,のぞんだ見聞,のぞまない見聞,いくつかの恋と,よくもわるくも立ちどまれない生の夏日のめまぐるしさへ,ころんでも泣かないがじぶんで立つのを待たずにおとなが手をかすとくやしがって泣いた二さい児をわすれていない親としては,しょうしいっさいのくちだしをしないのが最上の礼儀とひかえられた.」

死を迎えようとしている父を前にし、「二十ねんないし二十六ねん半」(本からの引用)の間に逸した父と子の心情を記述したか所です。私自身の父子の関係とはかなり違うにしても、一時は親の期待を裏切った身としては、泣きたくなるぐらい身につまされる文章でした。

若い頃は難解な文章もずいぶん読みましたが、もうダメ、「abさんご」が最後でしょうね。
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水窪が舞台の映画「果てぬ村のミナ」

数日前の夕方Shifoちゃんから電話、今「果てぬ村のミナ」のDVDをポストに入れてきたからということでした。お母さんから届けるようにと言付かったそうです。

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というのもこの映画、Shifoちゃんのお母さんの故郷・旧水窪町(今は合併して浜松市天竜区水窪町)が舞台になっているのです。
水窪には、天空の里「大沢」という集落があることや、そしてそこが舞台となってこの映画が創られていることなどは、水窪発“おけいさん”のブログ「吾亦紅」で良く知っていました。ですから見るのがとても楽しみでした。
ちなみに、“おけいさん”は、Shifoちゃんの義理の伯母さんに当たる方で、私とはブログ仲間です。次の写真は、天空の里「大沢」の写真ですが、“おけいさん”のブログから勝手に使わせてもらっちゃいました。(後でおけいさんから訂正がありました。この写真は「大沢」ではなく「竜戸」という地区の写真だそうです。見た感じはさほど変わらないということでしたが・・・)

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制作者は「限界集落と言われるような集落であっても、故郷がいつまでも故郷であり続けるように」とのメッセージを込めて、一編の青春ファンタジー映画に仕立てたと述べています。
その象徴的な「故郷」として天空の里「大沢」のある水窪が選ばれたのだと思います。そして、映画を見て、なぜ水窪が選ばれたのかがよく分かりました。

ストーリーを簡単に説明するとこうです。
急峻な斜面に茶畑が広がる天音村上ノ集落。茶づくりを生業としている守屋家の長男・耕助は、自転車で麓の高校に通う二年生。同級の聡、瑠璃とロックバンドを組み、放課後、スタジオで練習するのを日課としていた。
お茶の収穫を控えたある日、黒髪の神菜(ミナ)が、病の祖母のフミとともに上ノ集落に越してくる。フミは耕助の祖母・ハルと幼なじみで、60年ぶりの帰郷だという。耕助は謎めいたその美貌に次第に惹かれてゆく。しかし、神菜には他人には知られたくない秘密があった・・・。

この秘密がこの映画をファンタジー仕立てにしているのですが、それは、浦島太郎伝説とは真逆な発想の時間の流れを仮想したものです。その秘密の意味を解き明かすのは結構難解、そこまで考えなくてもいいのかも知れませんが、でも「故郷がいつまでも故郷であり続ける」ためのキーワードが、その秘密に託されているようにも思えました。
ブログ「吾亦紅」を読んでいると、いつも「本当の豊かさって何だろう」って、考えさせられます。この映画を見終わった後もそれと似たような気持ちにさせられました。
私たちにとって、「時間って何」「進歩って何」「豊かさって何」・・・見る側にそんな疑問を問いかけているようにも思います。
全国一律に問答無用で作り替えちゃんではなくて、過ぎ去るモノと留まるモノ、変わるモノと変わらないモノ、残すべきモノと変えるべきモノ・・・そんな比較を丁寧に行いながら、もう一度「残すべき故郷って何だ?」ということについて考えてみる必要がありそうです。

撮影時の様子やそれに対する町民の反応もブログ「吾亦紅」を読んで知っていましたが、瀬木直貴監督は、撮影中の忘れられない思い出として祭りの再現をあげ、次のように書いています。

水窪祭(劇中では天音祭)は9月に行われるのですが、それを5月に撮影するために再現しなくてはならない。しかし、屋台のメンテナンスや仮装の準備には大変な労力を必要とし、実現はできないと半ば諦めていた。しかし、直前になって商工会の皆さんやボランティア団体の方々のおかげで、何とか撮影の運びになり、ホッと胸をなで下ろした。
祭りのエキストラとして撮影隊が希望した人数は600名、ところが、当日は何と1000名近くが集まり、遠くは東京から来られた方もいて、もの凄い盛り上がり。本当の祭りではないのに、前夜祭(酒盛り)が町のあちこちで開かれて、スタッフも一緒になって盛り上がっていました。

その様子が目に見えるようです。
水窪の町はShifoちゃんの音楽DVDの映像を見たのが最初、坂や石垣の多いまちにとても興味をもちました。その後、“おけいさん”のブログを読んだりして、増々訪れてみたいと思うようになりました。そこに駄目押しのこの映画、今年こそ行くぞ・・・!
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テーブルとして蘇った臼

妻の曾祖父の為吉じいさんが造った臼が、テーブルとして蘇りました。

昨年の暮れにコレクティブハウスの居住者から、「餅つきをしたいんだけど、臼と杵、どこかにないですかね」と相談を受けました。
「うちにあるよ」と言ってはみたものの、もう数十年も使っていなかったので不安になりすぐに小屋から取り出して水洗いしたら何とか使えそう、他にセイロとカマドは里山GW代表の川島さんから、プロパンガスはうちの出入りの業者から借りてあげることにしました。

当日は心配だったので私も見に行ったのですが、会場は大賑わいで盛り上がっていました。知人や近所にもチラシを配って呼びかけたそうで、私の知らない方も大勢参加していました。これって、コレクティブハウスらしいやり方ですね。

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ただし、臼も杵もところどころささくれ立っていたので、その木くずが餅の中に混じり込み往生していました。大きな木屑はその都度取り出すのですが、細かいのは取りきれず、木屑入りの餅を食べるハメになってしまいました。

餅つきはこれからも年中行事として続くだろうと思ったので、臼と杵が戻ってきてから、そのささくれ立った部分にグラインダーをかけて磨いてやりました。そのついでにと側面もグラーンダーで磨いたら何とビックリ、ケヤキの玉杢が浮き出てきました。古びてみすぼらしかった臼が、見事に変身しました。

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臼の側面には「大正十三年子年三月造之 小林為吉」と彫ってあります。そのことを妻に聞くと、為吉じいさんが自分で造ったもので、ケヤキの原木を府中で購入して、そこから転がして運んできたのだそうです。

そんな曰く付きの臼ですから、ガラスの天板を乗せて、普段はテーブルとして使おうということになりました。
でもガラスを加工してくれる業者がどこにあるか知りませんなんから、ネットで調べてみたら結構あるんですね。その中から丁寧に解説してある業者を選んだら、それが何と福井の業者。時代を感じますね。しかもこの会社やる気満々で、例えばテーブルトップ.com、オーダーガラス.com、ディスプレーラック.comといったように、ガラスの種類別に20近いHPを持っているんです。ネット販売の奥義を知った思いです。

数日前に天板が届いたので乗せてみたらなかなかオシャレ、為吉つながりで、テーブルも「為吉蔵」に置くことにしました。

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実はこの蔵も百姓兼大工だった為吉じいさんが自分で建てた蔵なのです。それを数年前にリニューアルして「為吉蔵」と命名し、時々仲間を呼んではポットラックパーティなどを開いています。
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